ビートたけしと高田文夫、オールナイトニッポンでの黄金タッグが誕生した理由「太田プロ副社長の提示した条件」
2015.03.18 (Wed)
2015年3月17日放送のTBSラジオ系のラジオ番組『爆笑問題カーボーイ』(毎週水 25:00 - 27:00)にて、お笑いコンビ・爆笑問題の太田光が、高田文夫の著書『誰も書けなかった「笑芸論」 森繁久彌からビートたけしまで』を読んだところ、そこに書かれていたビートたけしと高田文夫のタッグで『ビートたけしのオールナイトニッポン』が誕生した理由に驚いたと語っていた。
誰も書けなかった「笑芸論」 森繁久彌からビートたけしまで

太田光:この間、高田文夫先生に送っていただいたね、『誰も書けなかった「笑芸論」』って読んでたんですよ。これがもう、面白くてね。
田中裕二:うん。
太田光:高田さんって凄いんだよ。あの人、渋谷生まれで。子供の頃、千歳船橋に引っ越したらしいんだよ。そこで育つんですよ。山の手のボンボンなんですよ。
田中裕二:うん。
太田光:下町ではないけど、でもやっぱり笑いは大好きで。
田中裕二:うん。
太田光:近所に、森繁亭があったんだって。それで、『社長シリーズ』の頃で。それで、森繁さんの家まで行って、「社長!社長!」って小学生の時に言うと、森繁が出てくるんだって。
田中裕二:ウソ(笑)
太田光:「うるさい、この野郎!」って、棒を持って追っかけられたって(笑)
田中裕二:へぇ。
太田光:「社長!今日は、愛人の家か?」とか言ってたんだって。
田中裕二:へぇ、そうなんだ。
太田光:その頃から、本当にマセてて。そういうのが大好きで。
田中裕二:へぇ。
太田光:劇場に通ったり。その中で、たけしさんと出会うシーンがあるんですけど、その頃は、青島幸男さんに憧れて…『おとなの漫画』を観た時に「出演 ハナ肇とクレイジーキャッツ、作 青島幸男…『作』ってなんだ?」って思った、と。学校では、「植木が良い」「谷が良い」なんて言ってるけど、高田先生は違ったんだって。「違うんだよ。これ、青島幸男が凄いんだ」って思ってた、と。
田中裕二:うん。
太田光:「俺はいずれ、ああいうコント作家になるんだ」って思ったんだって。そこで、放送作家ってものがあるって知ったんだって。小学生の時だよ?
田中裕二:小学生の時ね。
太田光:それで、青島幸男さんに憧れて、弟子になりたいって思ってたけど、その後、無責任シリーズだなんだって、スーダラ節の大ヒット、青島幸男の天才っぷりを、子供心に見せつけられた、と。それで、やっと自分もその仕事をする時になったら、青島幸男さんは、政治家になっちゃった。
田中裕二:うん。
太田光:だから、弟子になれなかったんだけど、自分は塚田茂さんの門戸を叩いて、『ヒットスタジオ』とか、『せんみつ・湯原ドット30』とか、あのへんの歌謡曲の番組から入るわけですね。
田中裕二:うん。
太田光:テレビデビューは早いわけですよ。それですでに、売れっ子になっていく。
田中裕二:70年代ですよね。
太田光:漫才ブームの前夜で。セントルイスがちょこっと出てくるくらいの頃。それで、石倉三郎さんが新宿コマ劇場とかでお芝居に出てて。石倉三郎が「お笑いやろうと思うんだけど」って相談受けて。
田中裕二:ああ、その頃なんだ。
太田光:「だったら、高田に書いてもらえ」って、高田先生が一個、コントを書くんだって。でも、それから石倉さんいなくなって2年くらい。どこに行ったか分からない。それで、後で聞いたら、そのコント1個を持って、全国を回ってたんだって。
田中裕二:へぇ。
太田光:しばらく経って、青空球児師匠とかポール牧さんとか、「高田ちゃん、今ね、浅草にスゲェヤツがいる」って。「とにかく、ヤクザみたいなヤツなんだけどね。2人いるんだよ。たけしってヤツと、石倉三郎」って。それで、「あの石倉三郎か」ってなるんだって。
田中裕二:へぇ。
太田光:それで、浅草で初めてツービートを見て、「これはスゲェ」ってなるんだって。「ツービートのたけしと話したい」って言って、その場で誘うんだって。それで一緒に飲んで、盛り上がって。
田中裕二:うん。
太田光:たけしさんは、足立区で、自分は山の手だけど、原体験としては、似たような感じで。「こんなヤツがいるんだ」ってことで、家を行き来する間柄になった、と。
田中裕二:うん。
太田光:それで漫才ブームが来て。THE MANZAIと、名人劇場が盛り上がって。ツービートを当然出して。その時、LF(ニッポン放送)から、「3ヶ月だけなんだけど…ツービートの小さい方、つまんない方は要らないんだけど」って高田先生が言われて。
田中裕二:うん(笑)
太田光:「漫才師って、バラで使っちゃいけないって決まり、あるの?」って言われて、高田先生は「ああ、そうか。別にそんな決まりはないや」って。それで一応、「持ち帰って検討します」って、そのまま四谷に行って、太田プロの副社長に言って。
田中裕二:うん。
太田光:そこでまた、副社長が凄いんだよ。ちょっと考えて。そこに社長が来て。「高田先生、どうしたの?打ち合わせ終わったら、飲みに行こうよ」って(笑)
田中裕二:社長がね(笑)
太田光:それで副社長はちょっと考えて。「タケちゃん、凄いデリケートだから。高田先生がずっとついていてくれたら良い」って。
田中裕二:ああ、副社長の意見だったんだ?
太田光:そう。「それを条件に、3ヶ月お貸しします」って。それで決まったんだって。
田中裕二:へぇ。
太田光:そっからキレキレの。元旦に始まって。聞きましたよね?アレ、収録だったらしいですよ。さすがにLFもビビったらしいんですよ。確かに1回目、ヒドかったですよね(笑)
田中裕二:ふふ(笑)
太田光:俺も衝撃だった。『ビートたけしのオールナイトニッポン』って、俺もあの日、大晦日に新聞のラテ欄で見るんですよ。「ビートたけしって、あのツービートの小さい方かな?」って思った。それで、高田文夫さんも、「ああ、アイツ、ビートたけしっていうんだ」って、ラテ欄で思ったんだって。
田中裕二:ああ、そうか。ビートたけしって、そこで初めてみんな知るんだ(笑)
太田光:高田さんもそう思ったんだって。凄いだろ?
田中裕二:『たけしのオールナイトニッポン』じゃなんだか分からないからって、「ビートたけし、ビートきよし」にしようって、そこで決めたのかもね。
太田光:「大晦日、餅でひり出す二年糞」って一言で、始まって。そこから伝説が始まるわけですけど。そこで、たけしさんの当時のツービートのネタの再現とか、書き起こしで書いてあるんですけど、キレキレですよ。
田中裕二:うん。
太田光:セントルイスが「田園調布に家が建つ」をやってる頃に、やっぱりたけしさんは面白くなかったらしい。それで、同じ標語で「赤信号 みんなで渡れば怖くない」とか。
田中裕二:うん。
太田光:言ってみれば、決め台詞。
田中裕二:「寝る前に 必ず締めよう親の首」とかね。
太田光:「最近の子供は、体弱くなったなぁ…頭に釘打っただけで死んじゃう」とか(笑)そういうキレキレのヤツをやってて。
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太田光:この間、高田文夫先生に送っていただいたね、『誰も書けなかった「笑芸論」』って読んでたんですよ。これがもう、面白くてね。
田中裕二:うん。
太田光:高田さんって凄いんだよ。あの人、渋谷生まれで。子供の頃、千歳船橋に引っ越したらしいんだよ。そこで育つんですよ。山の手のボンボンなんですよ。
田中裕二:うん。
太田光:下町ではないけど、でもやっぱり笑いは大好きで。
田中裕二:うん。
太田光:近所に、森繁亭があったんだって。それで、『社長シリーズ』の頃で。それで、森繁さんの家まで行って、「社長!社長!」って小学生の時に言うと、森繁が出てくるんだって。
田中裕二:ウソ(笑)
太田光:「うるさい、この野郎!」って、棒を持って追っかけられたって(笑)
田中裕二:へぇ。
太田光:「社長!今日は、愛人の家か?」とか言ってたんだって。
田中裕二:へぇ、そうなんだ。
太田光:その頃から、本当にマセてて。そういうのが大好きで。
田中裕二:へぇ。
太田光:劇場に通ったり。その中で、たけしさんと出会うシーンがあるんですけど、その頃は、青島幸男さんに憧れて…『おとなの漫画』を観た時に「出演 ハナ肇とクレイジーキャッツ、作 青島幸男…『作』ってなんだ?」って思った、と。学校では、「植木が良い」「谷が良い」なんて言ってるけど、高田先生は違ったんだって。「違うんだよ。これ、青島幸男が凄いんだ」って思ってた、と。
田中裕二:うん。
太田光:「俺はいずれ、ああいうコント作家になるんだ」って思ったんだって。そこで、放送作家ってものがあるって知ったんだって。小学生の時だよ?
田中裕二:小学生の時ね。
太田光:それで、青島幸男さんに憧れて、弟子になりたいって思ってたけど、その後、無責任シリーズだなんだって、スーダラ節の大ヒット、青島幸男の天才っぷりを、子供心に見せつけられた、と。それで、やっと自分もその仕事をする時になったら、青島幸男さんは、政治家になっちゃった。
田中裕二:うん。
太田光:だから、弟子になれなかったんだけど、自分は塚田茂さんの門戸を叩いて、『ヒットスタジオ』とか、『せんみつ・湯原ドット30』とか、あのへんの歌謡曲の番組から入るわけですね。
田中裕二:うん。
太田光:テレビデビューは早いわけですよ。それですでに、売れっ子になっていく。
田中裕二:70年代ですよね。
太田光:漫才ブームの前夜で。セントルイスがちょこっと出てくるくらいの頃。それで、石倉三郎さんが新宿コマ劇場とかでお芝居に出てて。石倉三郎が「お笑いやろうと思うんだけど」って相談受けて。
田中裕二:ああ、その頃なんだ。
太田光:「だったら、高田に書いてもらえ」って、高田先生が一個、コントを書くんだって。でも、それから石倉さんいなくなって2年くらい。どこに行ったか分からない。それで、後で聞いたら、そのコント1個を持って、全国を回ってたんだって。
田中裕二:へぇ。
太田光:しばらく経って、青空球児師匠とかポール牧さんとか、「高田ちゃん、今ね、浅草にスゲェヤツがいる」って。「とにかく、ヤクザみたいなヤツなんだけどね。2人いるんだよ。たけしってヤツと、石倉三郎」って。それで、「あの石倉三郎か」ってなるんだって。
田中裕二:へぇ。
太田光:それで、浅草で初めてツービートを見て、「これはスゲェ」ってなるんだって。「ツービートのたけしと話したい」って言って、その場で誘うんだって。それで一緒に飲んで、盛り上がって。
田中裕二:うん。
太田光:たけしさんは、足立区で、自分は山の手だけど、原体験としては、似たような感じで。「こんなヤツがいるんだ」ってことで、家を行き来する間柄になった、と。
田中裕二:うん。
太田光:それで漫才ブームが来て。THE MANZAIと、名人劇場が盛り上がって。ツービートを当然出して。その時、LF(ニッポン放送)から、「3ヶ月だけなんだけど…ツービートの小さい方、つまんない方は要らないんだけど」って高田先生が言われて。
田中裕二:うん(笑)
太田光:「漫才師って、バラで使っちゃいけないって決まり、あるの?」って言われて、高田先生は「ああ、そうか。別にそんな決まりはないや」って。それで一応、「持ち帰って検討します」って、そのまま四谷に行って、太田プロの副社長に言って。
田中裕二:うん。
太田光:そこでまた、副社長が凄いんだよ。ちょっと考えて。そこに社長が来て。「高田先生、どうしたの?打ち合わせ終わったら、飲みに行こうよ」って(笑)
田中裕二:社長がね(笑)
太田光:それで副社長はちょっと考えて。「タケちゃん、凄いデリケートだから。高田先生がずっとついていてくれたら良い」って。
田中裕二:ああ、副社長の意見だったんだ?
太田光:そう。「それを条件に、3ヶ月お貸しします」って。それで決まったんだって。
田中裕二:へぇ。
太田光:そっからキレキレの。元旦に始まって。聞きましたよね?アレ、収録だったらしいですよ。さすがにLFもビビったらしいんですよ。確かに1回目、ヒドかったですよね(笑)
田中裕二:ふふ(笑)
太田光:俺も衝撃だった。『ビートたけしのオールナイトニッポン』って、俺もあの日、大晦日に新聞のラテ欄で見るんですよ。「ビートたけしって、あのツービートの小さい方かな?」って思った。それで、高田文夫さんも、「ああ、アイツ、ビートたけしっていうんだ」って、ラテ欄で思ったんだって。
田中裕二:ああ、そうか。ビートたけしって、そこで初めてみんな知るんだ(笑)
太田光:高田さんもそう思ったんだって。凄いだろ?
田中裕二:『たけしのオールナイトニッポン』じゃなんだか分からないからって、「ビートたけし、ビートきよし」にしようって、そこで決めたのかもね。
太田光:「大晦日、餅でひり出す二年糞」って一言で、始まって。そこから伝説が始まるわけですけど。そこで、たけしさんの当時のツービートのネタの再現とか、書き起こしで書いてあるんですけど、キレキレですよ。
田中裕二:うん。
太田光:セントルイスが「田園調布に家が建つ」をやってる頃に、やっぱりたけしさんは面白くなかったらしい。それで、同じ標語で「赤信号 みんなで渡れば怖くない」とか。
田中裕二:うん。
太田光:言ってみれば、決め台詞。
田中裕二:「寝る前に 必ず締めよう親の首」とかね。
太田光:「最近の子供は、体弱くなったなぁ…頭に釘打っただけで死んじゃう」とか(笑)そういうキレキレのヤツをやってて。
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