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本当は作家を目指していた?アンタッチャブル山崎
2009.04.20 (Mon)
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実は、二人の所属事務所は異なっている。有田はプライム所属であるが、アンタッチャブルは人力舎所属である。事務所は異なっているが、山崎たちがまだ無名の頃からの付き合いだったようだ。
有田は「俺の仕事があると、必ずと言っていいほど山崎が同行していた。だから、第2のマネージャーと思われていて、番組スタッフが山崎に『入り時間が変更になりました』と伝えてきたこともある。面倒くさがって、自己紹介もしないし」と、当時のことを話していた。
「だから、M-1でアンタッチャブルが出演していたときの番組スタッフ達は驚いたみたい。『あの子達、芸人に転向したんだ』って」と、有田は話していた。局の制作者たちには、最初は芸人と思われていなかったようだ。
さらに、山崎はこの頃のことを振り返り、以下のように話していた。
山崎は、「実は、M-1で優勝するまで、座付き作家(特定の芸能人のブレーンを担当する放送作家)になろうと思っていた。夢は、一緒の舞台に立つことだった。芸人としても売れないし、でも、お笑いに携わっていたくて…そうなると、作家になるのがいいんじゃないか、と思った」と話していた。
「だから、営業とかの仕事が入ると、『すいません、営業の仕事が入っちゃったんで…』といった感じになった。もう、作家の仕事のほうがメインになっていた。ギャラも発生していたし。ライブの練習とかネタ見せも、ぶっちぎっていた」と語った。もしかすると、現在の世界のナベアツのように、元・芸人の放送作家になっていたかも知れなかったようだ。
「M-1に出場していた頃は、芸人を辞めてその後に座付き作家になろうとしていた。でも、一度3位になっちゃって、その後、芸人として売れ始めてしまった。計画がダメになりかけた。だけど、次のM-1で負ければ、一時期のブームだけで忘れられると思っていた。そうしたら、敗者復活から優勝してしまった」と、優勝は、山崎にとってはあまり有り難くないことだったと語っていた。
有田は、「もしかしたら、同じ目標に向かってやっているコンビではなく、全く異なる価値観(一方はM-1優勝、もう一方は負けて作家になることを考えている)の2人がやる漫才だったからハジけたんじゃないだろうか」と分析していた。
「だから、『なぜアンタッチャブルが優勝したと思いますか?』と訊かれると、『山崎が芸人を辞めようと思っていたから』と答えている。漫才って、本当は思っていないことを実際はやっていることになるから、嘘くさい。でも、あの時の山崎は『本当に面倒くさい』って感じで、リアリティがあった。それが凄いテンポを生み出した」と有田は話した。
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