どうして芸人・ビートたけしが誕生したのか?
2013.02.14 (Thu)
ビートたけしの著書「間抜けの構造」にて、ビートたけしが芸人になるまでが記載されていた。
ビートたけし(北野武)は、高校卒業後、明治大学工学部機械工学科に入学する。しかし、大学にはすぐに行かなくなり、新宿界隈で当ての無い日々を送るようになる。この頃をビートたけしは、
そのような生活を続けている内に、大学を中退することを決意する(といっても、母親は学費を6年間払い続けており、除籍にはならずにいた)。タクシー運転手、ビルの解体、羽田空港の荷役…など、アルバイトを転々とした後、25歳で浅草のストリップ小屋でエレベーターボーイを始める。なぜ浅草だったかについては、以下のように記していた。
だが、実のところ最初から芸人を志していたわけではなかった。ビートたけしの初舞台は、深見千三郎に「コントの欠員が出たために代わりに出ろ」、と命じられたことでオカマ役で出演したのが最初だった。その後、様々な舞台を見るようになったが、当時の売れっ子芸人であるWけんじの芸人を見ても面白いとは思えなかった、という。
フランス座に出入りしていた、2年先輩の兼子二郎(ビートきよし)から、「漫才やろうよ」と誘いを受けて、漫才を始めることとなった。当時、漫才協会に所属しなければならなかったことから、"一番人のよさそうな"という理由で松鶴家千代若・千代菊師匠に弟子入りするも、売れずにコロムビア・トップ・ライトに弟子入りするも売れず。
そこで一時、コンビをきよしと解散し、他のフランス座の仲間とコンビを組むも、あまり上手くいかずに、27歳時に、再びきよしとコンビを組むこととなった。そこでのコンビ名がツービートであるが、その名前の由来をビートたけしは、次の様に語っている。
とのことである。
寄席に出る際、コンビ名がなくては困るため、「ツービート」と名乗りだした。なお、このコンビ名について、「きよしさんには相談しなかったし、文句言われることもなかったんだけど」と記していた。
次の記事:ビートたけしが語る「漫才におけるツッコミの役割」
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浅草芸人になるまで
ビートたけし(北野武)は、高校卒業後、明治大学工学部機械工学科に入学する。しかし、大学にはすぐに行かなくなり、新宿界隈で当ての無い日々を送るようになる。この頃をビートたけしは、
ただ学校がつまんなかっただけ。すぐに行かなくなっちゃって、新宿のジャズ喫茶や雀荘あたりをウロウロしてたんだけど、学生運動華やかなりし時代だったから、社会からドロップアウトしたフーテンとか怪しいやつが、当時の新宿界隈にはわんさかいたんだよ。その時代の影響もあった。と記している。
そのような生活を続けている内に、大学を中退することを決意する(といっても、母親は学費を6年間払い続けており、除籍にはならずにいた)。タクシー運転手、ビルの解体、羽田空港の荷役…など、アルバイトを転々とした後、25歳で浅草のストリップ小屋でエレベーターボーイを始める。なぜ浅草だったかについては、以下のように記していた。
なんで浅草に行ったかというと、結局おいらは団塊の世代だし、高度経済成長のまっただ中だったから、みんなと一緒というのはちょっとイヤだったのね。落ちこぼれでもいいから、人と違うことをしようと思った。(中略)当時、浅草に行こうなんてやつは周りにいなかった。世間一般の「出世コース」から降りて、ちゃんと落ちこぼれたかったんだよ。とのことだった。
それでも、浅草にいれば、死ぬ理由がつくれる。「浅草芸人」という肩書きがつくわけだから、そこで一生売れないまま野垂れ死んだとしても、「あいつは最後まで浅草芸人として死んだ」っていわれるから、いちおうの格好はつく。それはもう保険証をもらったみたいなもので、いわばお墨付きなんだ。
だが、実のところ最初から芸人を志していたわけではなかった。ビートたけしの初舞台は、深見千三郎に「コントの欠員が出たために代わりに出ろ」、と命じられたことでオカマ役で出演したのが最初だった。その後、様々な舞台を見るようになったが、当時の売れっ子芸人であるWけんじの芸人を見ても面白いとは思えなかった、という。
舞台を終えたWけんじがベンツにノって帰って行った。それを見て、「へぇー。あれでベンツに乗れるんだ」って変に感心しちゃった。だったら、おいらもやってみようかなと、そこで初めて漫才をやろうと思った。と、漫才師になることを決意する。
相方・ビートきよしとの出会い
フランス座に出入りしていた、2年先輩の兼子二郎(ビートきよし)から、「漫才やろうよ」と誘いを受けて、漫才を始めることとなった。当時、漫才協会に所属しなければならなかったことから、"一番人のよさそうな"という理由で松鶴家千代若・千代菊師匠に弟子入りするも、売れずにコロムビア・トップ・ライトに弟子入りするも売れず。
そこで一時、コンビをきよしと解散し、他のフランス座の仲間とコンビを組むも、あまり上手くいかずに、27歳時に、再びきよしとコンビを組むこととなった。そこでのコンビ名がツービートであるが、その名前の由来をビートたけしは、次の様に語っている。
「ビート=beat」というのは、拍子という意味があって、だから「ツービート」といえば、「一、二、一、二」という二拍子を思い浮かべるかもしれない。でも、そっちの「beat」を意識したわけじゃない。
「beat」には、「打ち負かす」という意味もある。1950年代のアメリカに、アレン・ギンズバーグやウィリアム・バロウズなんかに代表される「ビート族」というのがいた。その「ビート」は、「規制の道徳・秩序などに反抗して、無軌道に騒ぎまわること」という意味があって、どちらかといえばそっちかなと思うけど、実はあまり深い意味はないんだ。だいたい、漫才のコンビ名なんていうのは、おいらの時代はみんな適当につけていて、あまり意味なんて考えなかった。
とのことである。
寄席に出る際、コンビ名がなくては困るため、「ツービート」と名乗りだした。なお、このコンビ名について、「きよしさんには相談しなかったし、文句言われることもなかったんだけど」と記していた。
次の記事:ビートたけしが語る「漫才におけるツッコミの役割」
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